死にネタです!
鮮やかな世界の片隅で僕は
彼女の姿が見えなくなって、どれくらいたったのだろう。
姿を見ることは無かったが、噂だけは聞こえてくる。
異端者として捕らえられて、そして、火あぶりになっただとか、何とか。
もう二度と会う事は無いだろうと、我ながら冷え切った頭で考えた。
そう、会う事は無い。
だから、大丈夫。
大丈夫。
思いを告げた事は無いし、確かに彼女の事は好きだったけれど。
きっとすぐに記憶の中に埋没できる。
今までの不特定多数の中に、彼女を連ねる事くらい簡単だ。
そう、とても簡単。
うん、大丈夫。
傷ついてなんかいないし、感傷に浸る暇など無い。
彼女の事は、自分の為に戦ってくれた美しい人、としてずっと記憶に残しておく。
それだけでいい。それ以上の事は、いらないんだ。
抱きしめてキスしたかった、なんて思ってない。
記憶の中の彼女の声や姿は、少しずつ薄れていった。
ああ、あんなにも好きだったのに。
月日と言うものは残酷だ、なんて人間がよく言っているが、今ほどその意味を痛感した事はなかった。
窓の外は、見事な満月。
すっかり忘れていたが、今日は「食事」の日だ。
空腹なのかどうかはよく分からない。
誰かが持ってくる「餌」が、不味そうだったらどうしよう。食べたくはないなぁ、なんて思っていると扉が静かに開いた。
黒い覆面をした男(多分)に連れられて、白い簡素なワンピースを着た少女が入ってきた。
今日の餌はこの子か、と思うや否や背筋が凍りつく。
顔は、白い布をかぶせられていて見えない。
けれど。
見覚えが、ある。
いや、あるなんてもんじゃない。
その腕の持ち主と、剣を振るった。
その足の持ち主と、共に馬に乗って地を駆けた。
その髪の持ち主と、同じ空気を吸っていた。
黒い覆面の男は、彼女を一人置いて部屋から出て行った。
固まっている自分と決して目を合わせようとはしなかった。
彼女はとても静かだ。
両腕を後ろで縛られているせいで、自分では頭にかぶせられた布を取れないのだろう。
だが暴れる素振りは見せなかった。
この布を、取るべきか。
取ってしまったら、自分はどうすればいい?
・・・・・・喰べるのか?
いや、そんな事、・・・出来るわけがない。
彼女だけでも、逃がす術は無いだろうか。
どうにかして見つからないように、国の外に出して、それから―・・・。
無理だ。
国民のほとんどが、彼女の顔をきっと知っている。
それに国外に逃れたからといって、イギリス兵から逃れられるとは思わない。
もし、捕まったら。
何が彼女を待ち受けているかなんて、容易に想像がつく。
最悪な結果しか思い浮かべない想像を巡らせていると、布の下から彼女が声を発した。
「あの・・・」
懐かしい声が、聞こえる。
たったそれだけであからさまに動揺した自分を、彼女は気配で感じ取ったらしい。
「どうか・・・したんですか?」
なんでもない、と答えようとして我に返る。
彼女は、自分の事を知っているのだろうか。
自分が、人では無くて、人を捕食する存在だと、気づいていたのだろうか。
「ジャン」
思考が止まる。
懐かしいその声は、確かに自分の、人の中で使っている名を呼んだ。
思わず衝動的に彼女の顔にかけられていた布をとる。
そこには、少し不安そうにしながらも、いつも見ていた春の陽だまりのような笑顔があった。
「やっぱり、ジャンです」
「・・・ジャン・・・ヌ・・・」
声が上手く出せない自分とは打って変わって、平素の声で彼女は微笑む。
「お久しぶりです、元気・・・でしたか?」
「・・・・・・あ、ああ・・・」
よかった、と彼女は笑った。
何が良かったものか。自分が、今から何をするか彼女は知らないのか。
人の事を気遣う余裕など在りはしない事を、気づいていないのか。
「昔・・・」
少し低いトーンで彼女がぽつり、と言葉を漏らす。
「母から、聞いた事があります。
それを初めて聞いた時は、怖くて仕方がなかったんですけど」
今はそんな事、少しも思いません。と彼女は続ける。
「満月の夜は、外に出てはいけないと何度も言われました。
――――ゲニウスの謝肉祭だから」
彼女の瞳は、笑っていた。
今日は見事な満月ですね、と相変わらずの笑顔で続ける。
そして、一言、ごめんなさい、と言った。
「どうして・・・謝るんだ・・・・・・」
「・・・・・・ごめんなさい。私の身体・・・綺麗じゃないんです・・・」
笑顔のまま、一筋の涙が流れる。
「綺麗なまま、貴方に・・・食べてもらえるのなら・・・何も怖くなかったのに・・・」
知っているのだ。
自分が何者かを、彼女は。
「・・・・・・俺は・・・君を食べるなんて・・・」
彼女の笑顔が、消えた。
「・・・・・・やっぱり、綺麗じゃないと、駄目ですか・・・?」
「そんな事じゃない!」
声が荒くなってしまったが、そんな事に構っている余裕はない。
「お前は、俺が何をしようとしているのか分かってるのか!?」
そんな事、と彼女は呟く。
「俺はお前を喰おうとしてるんだぞ!何故逃げようとしないんだ!
何故、生きようと、逃がしてくれと言わないんだ!」
ほとんど八つ当たりだ。
「餌」として連れて来られた者の末路など分かりきった事だろうに。
なのにその「餌」に、命乞いをしろと求めるなんて。
なんて残酷な事を自分はしているのだろう。
「・・・・・・逃げて、逃げて、何処に行けとあなたは言うんですか?」
「それはっ・・・」
逃げて、何処に行けと言うのだろう。
つい先刻「逃亡は無理だ」と悟ったばかりではないか。
「・・・・・・逃げて、見ず知らずの人に殺されるくらいなら、私はあなたに食べてもらいたいんです・・・」
我侭を言ってごめんなさい、と彼女はうなだれた。
「・・・・・・どうして・・・」
恐怖は、後悔は無いのか、と。
何て下らない事を聞いているのだろう自分は。
「・・・・・・怖くなんて、無いです。
だって文字通り、貴方の血となり肉となり・・・なれるのかな?うん、身体の仕組みなんてわからないけれど」
貴方の命の糧になれるのなら、何も怖くはないんです。
彼女は言い切った。
その潔さは、とても綺麗だった。
「・・・・・・ジャン・・・」
泣かないで、と言われて初めて自分が涙を流している事に気づく。
「・・・・・・痛みは、与えないから・・・」
抱きしめて、後ろ手の縄を解きながら囁いた。
ありがとう、と穏やかな声が聞こえた。
たまらなくなって、彼女の細い体を力いっぱい抱きしめる。
ごめんなさい、ありがとう、愛してる。
愛してる、と耳元で呟く。
泣きながら、何度も。
彼女は微笑みながら、強く抱き返してくれた。
そして、その腕は力なく地に落ちた。
肉の欠片も、骨も、血の一滴も残さずに自分のものにした。
涙はもう枯れていて、悲しいのか嬉しいのかすら分からなかった。
何かがたまらなく憎いと思ったけれど、それが彼女を捕らえたイギリスのところの人間なのか、それを止めなかったイギリスなのか、それとも自ら自分を食べてくれと言った彼女なのか、結局は食した自分なのかが分からない。
きっと全てが憎らしくて、だが仕方がないと割り切れる事柄なのだ。
自分の中に、彼女が存在する。
そう思うと、たまらなく愛しくて悲しくなった。
自分の血として肉として、永遠に共に在ることも、それは一つの道だと思う。
けれど自分が選びたかったのは、生きて、笑う、彼女と一緒に過ごす事。
物言わぬ彼女に、最初で最後のキスをしたけれど。
何一つ自分の心は軽くならなかった。
一緒に生きていたかったんだと、今更になって強く思い知る。
思い出として自分の中に残しておくには、あまりにも痛い。
忘れてしまいたい、忘れてしまいたい。
彼女と過ごした日々を、出会いを、思い出を、全て。
少しまどろんでいたようだ。
覚醒しても、自分が今まで何をしていたかがはっきりと思い出せなかったけれど、別に不都合は無いか、とそのままにしておいた。
「彼女」の事は脳内から綺麗に消えていた。
自己防衛本能かどうかは知らないが、次に彼女を思い出すのは随分と先になって、その時の上司が彼女の事を言い出してからだった。
外を見ると見事な満月は姿を消して、白んだ世界が広がっていた。