Godfather

薄暗い部屋に、ノックの音が響く。
「・・・・・・ヴァイクが呼んでるよ・・・」
泣き腫らした真っ赤な目をして自分を呼ぶのは、姉だった。
今の今までヴァイクの部屋に居たらしく、彼の部屋で炊いている香の香りが漂う。
「今・・・行く」
力なくうな垂れる姉に休むように言って、部屋を出た。


「ヴァイク?」
老いてしわのよった目が弱弱しく開けられる。
「・・・イシュトヴァーンだと言っているのに・・・お前たち姉弟はいつまで経っても私を幼名ヴァイクで呼ぶんだな・・・」
「だってヴァイクは、ヴァイクじゃないか」
そういって少しおどけたように笑うと、目の前の彼も釣られて薄く微笑んだ。
「まぁ、そんな些細な事はもうどうでも良い」
深く息を吸い込んだと思うと、また彼の口が開かれた。
「私はもうじき死ぬだろう」
きっぱりと言い切ったその顔に恐怖などは微塵も無かった。
「ヴァイク・・・そんな事言わないで・・・、きっとまた元気にっ・・・・・・」
皺だらけになった彼の手を握り、目を合わせる。
そこにあったのは老いて尚厳しく光る眼光であり、固い決意を秘めた目だった。
「・・・泣くんじゃないよ、ぼうや」
自分が握っている方とは別の腕で優しく頭を撫でられて、初めて自分が泣いていることに気付いた。
「形あるものは、いつか無くなってしまうものなんだよ、ぼうや」
だから私も無くなってしまうんだよ、と静かに告げられた。
胸がどうしようもなく軋んだ。
「・・・私はね、果たして君たち姉弟に何かをしてあげられたのだろうかと、想うよ」
国土をまとめて、王国を作った。
けれど後継者にと考えていた息子は不慮の事故で死んでしまった。
「きっと私が死んだ後・・・後継者争いが起こるのは必須だろう・・・それが最期まで心残りでならない・・・」
自分が死んだ後のことまでを憂いてくれる、目の前の彼。
こんなにいい上司を、自分達は戴くことが出来た。
それだけで、どんなに幸せな事か。
「大丈夫だよヴァイク・・・俺たちは独りじゃないもの。姉ちゃんときっとヴァイクが残してくれたモノを守るよ・・・」
それを聞いて少し気が楽になったよ、と告げられた。
頑張って笑おうと、笑顔を見せようと想ったけれど流れ落ちる涙が邪魔をして上手く笑えなかった。

「名前を、あげよう」

とても老いて寝付いているとは思えない声でしっかりと発せられた言葉の意味を理解するまでに少しばかり時間がかかった。
「・・・・・・名前?」
そうだ、と彼は笑う。
「おまえたち姉弟は二人とも『ハンガリー』だろう?それでは呼びづらいではないか」
それに、と彼が続ける。
「私が残してあげられる確かなものは、そのくらいしか無いからね」
先ほど彼が言った、形あるものはいつか無くなってしまう、と言う言葉が思い出されて余計に涙が零れた。


「イシュトヴァーン」


はっきりと口に出されたのは、目の前で横たわっている彼の聖名。
「私が貰った聖なる名を、今度はおまえにあげよう」
そうすればお前が生きている限り、この名は生き続ける事が出来るだろう?と言われ、言葉が出ない代わりに相変わらず涙が零れた。
「・・・・・・イシュトヴァーン・・・」
「そうだ、それがお前の名前だよ。気に入ったかい?」
とても嬉しかった。けれど上手く言葉に出来なくて、ただ懸命に頷くしかできなかった。

「ヴァイク・・・入ってもいい?」
渇いたノックの音がして、姉が顔を見せる。相変わらず目は真っ赤で、そして今にも泣き出しそうだった。
「こっちへおいで、ハンガリー」
ヴァイクは少し体を起こして、自分達2人を抱きしめてくれた。
「お前たちには迷惑をかけてばかりだったね・・・」
そんな事無いとヴァイクの腕の中で姉が反論する。
ヴァイクは微笑むだけだった。

「きっとお前たちは、これから長い時間この国を見守ってゆくのだろうね。
 辛い事だってきっとたくさんあるのだろう。
 けれど、自分を粗末にしてはいけないよ。
 ハンガリーというこの国に生きる人々が居る事を忘れてはいけないよ。
 彼らのためにも、お前たちの為にも」


「自分を大切にするんだよ」


姉も自分も、ずっと泣いていた。
別れは初めてではない。今まで何人もの人々と別れてきた。
生きている時間の流れが違うのだから、それは仕方が無いと想った。
それでも、やはり哀しいものは哀しいのだ。
「少し・・・疲れたな・・・」
そう言って彼は起こしていた体をまた横たえた。
「ハンガリー、イシュトヴァーン、・・・私はそろそろ子供たちに会いに逝くよ」
その言葉に、姉も自分も無理やり笑顔を作った。
「イムレに、よろしくね、ヴァイク」
「あとの2人にも、ね。ヴァイク」
ああ分かったよ、と彼は微笑んでそのまま息を引き取った。
二人の涙は止まらなかったけれど、それは哀しい気持ちだけではなかった。




―1711年 ブダペシュト―
姉から、トルコ商人に商品として売られてしまったヴァイク・・・イシュトヴァーンの右手のミイラが帰ってきたとの知らせを受けた。
すぐさまその場に向かい、変わり果ててしまった彼と何百年ぶりかの再会を果たした。


 お帰り、ヴァイク。
 俺も今は、ヴァイクって名乗ってるよ。
 ヴァイクがくれた名前は、俺にとって本当に大事な人にしか教えていないんだ。
 だって、ヴァイクがくれたものは、とてもとても大切なものだから。
 それに「ヴァイク」って呼ばれるたびに、ヴァイクが側に居るような気がして、なんだか嬉しいんだ。
 姉ちゃんは俺のことをヴァイクって呼ぶのはどうにも慣れないみたいで、「イシュ」って呼ぶけどね。
 何はともあれ、お帰り、ヴァイク。
 これからはずっと、ヴァイクの作ったハンガリーで安らかに眠って。
 
 お帰りなさい。
 
 そして、おやすみなさい。

 俺の大切な人。




2007/11/30

  • イムレ:イシュトヴァーンの息子。王位継承者だったが狩の途中に事故死。
  • あとの2人:イシュトヴァーンには最低3人の子供がいたとされるが皆彼より先に亡くなっている。